「絶対」も「完璧」も絶対ないという矛盾。
あまり考えていないように、軽く暴言吐くと友人間では定評(?)のある私ですが、
実は、嫌われたらどうしよう、あの時のことを怒っているのかもしれない…
と気にすることがあります。
私自身が何かすることで、躊躇しても、やってみて後悔することがあっても、
「やっちゃったー、まあしょうがないよね」であきらめがつくのですが、
これが、対人になると、がぜん「どう思われただろう?」を気にしていました。
これはもう、がぜん自分のこと以上に人が何を考えているのか考えて、
あーしていたら、こーしていたら…と延々考える時間のながかったこと。
その時間返して!って今は言いたい(笑)
そのくらい、意味のないことですよね。
私の感じたことは私個人のこと。
同じように相手がどう感じたかは相手のこと。
それを取り出して、「そう思ってほしかったんじゃないんだよ」
と主張しても、何ともなりません。
私がどうすればよかったと反省して、次にどう伝えようか、
と考えることは意味があったと思います。
けど、その時の相手の感情をどうにかしようとしても、
過去のこと、ましてや人のことは、どうにもなりません。
どうにもならないんだ、とまっすぐ見つめてみてください。
人の目を気にするということは、
人がどう思うか、人がどんな感情を持つか、を気にすること。
それは自分の手ではどうにもできないことなんです。
やりたいほうだい、言いたい放題ではなく、
自分の思ったこと、言ったことを素直に出していい。
どうなるか結果は引き受けると決めて、そのままだしてみましょう。
人の目は自分の目ではありません。
相手がこう思ったかもしれない、と考えていることも自分の目の範囲のこと。
本当のことはわからないんです。
引き受けると決めるために、自分に許可します。
根拠のなく「自分にOK」することができれば、人の目は気にならなくなります。
人と分かり合うことは、自分の思いとおりに進むことではありません。
自分の思い通りにしたいというこだわりを捨てて、
その結果まで含めて、受け止めることが、
分かり合えるということなんではないでしょうか。
結果を引き受けることができるなら、自分が言うことに人目を気にすることはない。
とはいっても、
私自身はまだまだ、言って後悔することもあります。
その結果まで受け止めきる所の、道半ばにいるのだとおもいます。
失言の多い私ですが、そこまで含めて認めて付き合ってくれる友人や仲間、
そして夫も。
その存在がありがたく、いつも教えられてます。ありがとう。
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